| 「(明治初期・お雇オランダ人)各工師の本邦土木に於ける功績は、長工師ファン・ドールンを第一に推すに躊躇せざるも、年数に於いて、また分量に於いては、デレーケの方遥かに多く、之(これ)を総括すれば両人共甲乙なき功績を建てたものと思惟せらる」。昭和十七年二月刊行の『明治以後本邦土木と外人』(土木学会)はこう評価した1)。この評価は今日のおいても正当なものである。本稿は、コルネリス・ヨハネス・ファン・ドールン(Cornelis Johannes van Doorn)の六十九年間の人生を日本における水工学上の業績に焦点を当て、オランダや日本国内で発掘した新史料も駆使しながら、新たな評価を下そうとするものである。ドールンは、一八三七年オランダのヘルデルランド州ハル地区に生まれ、土木工学の高等教育を受けた。明治維新からわずかに四年後の一八七二年に来日し、一時帰国はしたものの八年間日本に滞在した。その間、長工師(技師長)として日本の河川改修・用水路開削・港湾建設などの大事業を指導監督する一方で、科学的な治水技術書を刊行するなど明治初期の国づくりに大きな足跡を残した。外国人の彼が絶大な権限を行使できたのは、近代化を急ぐ内務卿大久保利通の後ろ盾によるものであった。彼が手掛けた代表的事業は安積疏水である。猪苗代湖から取水して安積原野を灌漑する福島県の安積疏水は、明治政府が実施した最初で最大の国営農業水利事業でもあった。現地調査開始は、大久保の生前である。しかし、日本と北米大陸を結ぶ港湾として完成が期待された宮城県の野蒜港は、大型台風の直撃を受けてあえ無く崩壊し、壮大な計画は放棄されて見果てぬ夢となった。大久保の横死後である。大惨事はドールン帰国後に発生したが、低水工事を得意とするお雇オランダ人技術者の限界を示すものであった。ドールンの栄えある功績に暗い影を落とすことになった。 |